年表
1168清盛出家
1169清盛福原移住
1170殿下乗合事件
1171徳子宮中へ
1172徳子高倉帝婚姻
1173大和田泊完成
1174義経奥州へ
1175頼朝子殺害
1176滋子死去
1177鹿ヶ谷陰謀
1178安徳帝生誕
1179重盛病死
1180頼朝挙兵
1181清盛病死
1182頼家誕生
1183木曾義仲京へ
1184義仲死去
1185壇ノ浦
やっとかけて欲しい言葉をかけて貰えたのだな、維盛。捨てた名を最後に呼んでくれるのが妻でも子でも兄弟でもなく、びわだった・・・。優しい餞だ。
何もかもから逃げたのは、何もかもを真正面から見つめてしまったからでは維盛…。別のものへ矛先を向け恐怖を紛らわすことだって人は出来るのに、恐ろしいものを醜いものをそのままに受け過ぎていた不器用さもあったように思うよ。そんな維盛が素敵だったけど。
建礼門院右京大夫はこの頃の資盛に手紙を送っているが、返事は無かったとされる。TVアニメではびわによって届いているという描写まで。
命乞いの書状は焚かれ返事など無いし、あらゆるものからそっぽを向かれる平家。そんな資盛にびわから届けられた伊子さんからの手紙は、どんどん家族を失っていく寂しさの中で嬉しかったろうな。
「鶏合 壇浦合戦」
平家一千余艘、源氏の船は三千余艘
源平両方陣を合はせて鬨を作る
上は梵天までも聞こえ、下は海竜神も驚くらんとぞ覚えける
憚りながらお耳 拝借
伝える栄華と 没落
地獄極楽 辛く 甘く
鐘の声 響き 儚く
物事と言うのは 常々
上 下 裏 表
変化をするのは 常
ただただ何もかも もう夢
10話
「見届けたい、平家の”先”を」 / 「俺達一族の平家の”末”を…か」←語り継ぐ”未来”を見る琵琶と、”滅び”を憂う資盛との対比。「遊びをせんとや生まれけむ」←人が生きるのに意味なんて無いかもしれない。でも、ただ一生懸命に”今”を生きる。現代にも通ずる”メッセージ性の塊”に圧巻
鎌倉殿とはまた違って、このアニメでは頼朝より政子の方がおっかないかと思ってたけど。やっぱりこっちの頼朝の胸の奥底にも、底知れぬ狂気みたいなものがあるのね・・・。
10話
たとえ分かっていたとしても平家滅亡の未来は変えることは出来ない。
それでも確かに生きた人々の最後を見届けて語り継ぐびわの覚悟を琵琶の弦から溢れる水(=涙)を強く弾くことで表現する演出に鳥肌と涙が止まらない…
10話感想
たんぽぽは『別離』。
それを飛ばしながら”遊びをせんと〜”を詠う描写に資盛とびわ(=視聴者、山田尚子監督)の憂いのようなものを感じて印象に残る。
そして弦に付いた水滴を飛ばし弾く琵琶法師。
それはこの先を見たくない葛藤を振り払うかのよう
此方も覚悟して最終回に臨もう
「#平家物語」10話、びわは灰燼に帰した福原で暫し佇み屋島に向かう。途中出家した維盛と再会したが、維盛は入水して果てた。屋島に着いたびわは資盛に伊子から預かった文を手渡す。徳子とも再会し、母と再会したことなどを話す。平家は義経の追討軍によって屋島を追われ、そして壇ノ浦へ
終盤毎回思ってたけど、いざこうやって壇ノ浦まで来ると本格的にOPの「最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても 今だけはここにあるよ」ってフレーズが染みる
重衡に情が湧き助けたいと思う頼朝だけど、同様に清盛に命を助けられた自分が平家滅亡の種となっているという事実が皮肉効いてて良いよね。
また、命が失われたとしても失われた命にも意味があって、次の時代への架け橋となるという解釈が「光るとき」の歌詞に込められているのもまた良い
戦場にあっては刀を取り弓を弾き、館においては花を愛で歌を詠む—平安の武者が消えていく。資盛の姿は旧来の武士の象徴として描かれているように思えた。
あと、花を見上げる後白河院の姿から屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへの遷移にも歴史が変わる怒涛の流れを感じた。
水鳥の羽音や戦など様々な事に怯え、出家し逃げだしてきた維盛。
そんな維盛に対してかけられた「人が耐えられる苦しみに自分が耐えれるとは限りませぬ」という台詞は作品だけに留まらない考えさせられる台詞。
最後の時まで怯えていた維盛の弱さも
1人の人間としての魅力だと思った。
コメント
屋島は現在は香川県高松市であり平家物語では源氏の武将である那須与一のエピソードが有名……彼は弓の名手である。
三種の神器は日本の皇室に置けるレガリア(王を象徴する宝)であり“八咫鏡(ヤタノカガミ)、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ、草薙剣と言う別名もある)、八尺瓊勾玉(ヤサカノニノマガタマ)”の事、よく他の作品でもキャラや戦艦やら武器名でも出てきますが実物が映像で出るのは天皇の即位儀式かな。
頼朝も苦しい立場でありその妻もまた……。
義経と巴が出会うのがここか!!!……そして義経と後白河法皇の関係が親密になった故に頼朝との溝が出来……。
壇ノ浦は関門海峡の一角で早鞆瀬戸(はやとものせと)の北側の浦。2005年放送の大河ドラマ『義経』にちなんだ銅像もあるが平家終焉の地とあって墓も多数存在する。なお付近には江戸時代初期に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島もある。
びわが語る壇ノ浦……さてどうなる?
与一のエピソードは高校の古文の授業で興味を持ちそのシーンがある古川英治の新・平家物語の8巻だけ買ってみたけどあんまり面白くなかった思い出がある。
このアニメがきっかけでまたちゃんと平家物語知りたいと思うのだけど
古川日出夫の原作を買おうか悩む。びわとかも出てくるわけじゃない別物だし
おすすめの平家物語の本はどれなんだろう?
「壇ノ浦」というより「壇ノ浦へ」だったな
全ての終わりへ向かってゆく回
すべてのものを置き去りにして人の世を去る維盛は、救われたと言えるのだろうか
維盛が去り、重衡も退場し、残された人々も最後の時を迎えようとしている
それなのにほんと「世界は美しいよ」。
今回もたまらなく面白く、魅入られた
補足いろいろ。
・作中年月
今話は、前話1184年2月から丸一年、1185年2月の屋島の戦い、3月24日の壇ノ浦戦開始まで。
教科書や源平合戦を題材にした歴史まんがなどでは「一ノ谷→屋島→壇ノ浦」しか書かれないことが多く、そのため一ノ谷で福原から平家を追い落とし、その流れですぐ屋島を攻めたように思ってる人が多い。
でも実際は、一ノ谷から屋島までは丸一年経っている。木曽義仲が倶利伽羅峠で平家を破ってから入京し負けて滅びるまでよりも長い時間だったりするのである。
その一年間に起きたことを描いているのが今話。
ここではアニメ内で描かれていないところを補足。
まず前話、1184年2月、一ノ谷の戦いで敗れた平家は福原から海へ追い落とされる。
だが水軍を持たない源氏方は平家を追撃することができなかった。
その後、平家は四国の屋島と、彦島(今の下関市、いわゆる壇ノ浦)を拠点として、瀬戸内海の海運を押さえて再起をはかる。
2月から3月にかけて、後白河法皇と平家(宗盛)の間で、重衡の身柄や三種の神器をめぐってやりとりがなされるが決裂。
また源氏も大軍をかかえ続けるわけにもいかず、範頼率いる主力軍はひとまず東へ帰還。義経が京に残り治安維持を担当する。(ここで後白河法皇や静とのつながりができる)
6月、態勢立て直した平家が海から時々本州を襲撃してくるようになる。
なので「そろそろ本腰入れて平家つぶさないと」と頼朝は判断し、西国遠征の準備にとりかかる。
7月、後鳥羽天皇即位。
同じ頃、平家の残党が近畿各地で蜂起。(三日平氏の乱)
義経鎮圧に駆け回る。
そのせいで、西国遠征軍は範頼が率いることに。(義経は東国武士から人気ないので外されたという説もあるし、義経を京から離すことに法皇たちが反対したという話もある)
9月1日、遠征軍、京を進発。
各地で平家を破りつつじわじわと西へ進軍するも、船がないので後方や補給線を平家に襲われ兵糧不足に苦しみ、また彦島はもちろん平家方が割と残っている九州にも渡れず、12月には周防(元山口県東部)で動けなくなる。
1185年1月、遠征軍はようやく九州へ。(船を手配したのが前話の緒方惟栄とその兄だったりする)
2月には九州の平家方を打ち破って、彦島の背後を取ることには成功するが、やはり水軍がないのでそれ以上どうすることもできず手詰まり。
そこで、京にいた義経に出撃命令が下る・・・。
とまあ、「源氏は、一ノ谷の戦いや屋島の戦いで平家を打ち破ると」の一行ですませられる時期にも色々あったのである。
・キャラ解説
エンドクレジットで、キャラ名ついている人たちの解説。
・「斎藤五」(斎藤さんの五郎)
冒頭で廊下を突っ走ってきて、維盛の妻と子供たちに報告していた人。
原典では「斎藤五、斎藤六が身の回りの世話をしている」と書かれている。この兄弟はこの後もずっと維盛一家の手助けをし続ける。
・「滝口入道」
維盛がすがった坊さん。
このアニメでは初登場だが、重盛に仕えていて、維盛とは以前からの顔見知り。出家前の名は斎藤時頼。
宮中警護にあたる「滝口武者」であったが、恋人への想いを断ち切ろうと出家、滝口入道と呼ばれるようになる。その顛末は原典でも一章を割いて語られている。
もっとも「身分の低い恋人との結婚を父に反対されたために仏道に身を投じ、恋人が寺を訊ねてきたが結ばれることもないのに会うわけにはいかないと追い返し恋人も納得する」話なので現代的な感覚では微妙、恋物語としてもほとんど人気はない。やはり平家物語で恋愛エピソードといえば静御前であり巴御前だろう。
出家後は高野山におり、維盛が訊ねたのも高野山。そこから維盛の願いで熊野参詣に同行し、彼の行く末を見届け高野山へ戻る。
・「武里(たけさと)」
維盛の舎人(とねり、下働き)。
入水を見届け、戻ってきて資盛に報告した泣き虫の人。
維盛に付き従って海まで同行。維盛から、お前は屋島に戻って自分が入水したことを伝え、もし世が落ちついたら平家伝来の刀と鎧を息子に譲ってやってほしいと命じられる。
また、セリフはなかったが、維盛と同じ船に乗っていた、資盛のいう「あとの者はみな飛びこんだというのに」という二人。
片方は「与三兵衛(よぞうひょうえ、よそべえ)重景」。維盛と同い年の二十七歳。平家に仕えていた父親が戦死した後、重盛が、維盛と兄弟のようにして育ててくれた武士。恩に報いるために自分も剃髪し維盛に従う。
もうひとりは「石堂丸」。八歳から維盛に仕えていた童(身の回りの世話をさせる少年)。この時十八歳。
どちらも維盛と共に旅立った。
原典では、武里も続こうとしたが、滝口入道に「維盛様の遺言を守らずにどうするのかこれだから下人は仕方のないことだ」と止められ泣きじゃくった。こちらでは資盛にも叱責されて泣いている。哀れ。
・重衡
鎌倉へ送られた後、高い教養と優雅な物腰で頼朝はじめ坂東武者たちに高く評価された。
しかし南都(奈良興福寺)が、「うちの寺焼いたあのクソ野郎絶対許さん」と身柄を要求してきたのに抗しきれず、壇ノ浦の後に南都へ送られ斬首。仏の慈悲はどこ行った。
その前に、妻と一度だけ会うことができたのが救いだっただろう。
重衡に限らず、「平家物語」では教養あり優雅な者は尊重され助命されかけることが多い。(助命されるとは言っていない)
維盛も、旅立ちを知った頼朝が「出家したならばもう平家とは関係ないのだから助けてやれたのに」と嘆いたりしてる。そして維盛の息子も・・・これは次話で。
・がんばった資盛、しかし・・・
資盛は、かつては一緒に今様を楽しんだ仲ということもあり、徳子経由で後白河法皇につなぎをつけようとするが、すげなくあしらわれ、独自に手紙を送っても法皇は相手にしない。
戦場に立つ前段階の、こういう「戦略」能力が最も高かったのが、敵側のトップ、このアニメではとぼけたキャラの源頼朝。
誰を敵とするかを定め、誰を動かすと効果的か、動かすために何が必要かを見極め、大義名分を得られるよううまく立ち回り、手紙一通で状況を一気に塗り替えるような真似をやってのける頼朝の手腕は日本史上屈指。
実例。
木曽義仲が平家を破って入京した時に、先んじて後白河法皇や貴族たちに「平家に奪われた荘園はこの頼朝がみなさまにお返しいたします」という手紙を送っていたので、義仲は「功績第一位、頼朝!」「木曽義仲、おぬしは『頼朝の命令で』よくぞ平家を追い払った!」という扱いをされた……。
この手の頼朝のやり口で支持者をどんどん失った木曽義仲は、逆転を狙い後白河法皇を襲うも、すでにその前に法皇の使者が頼朝の元に転がりこんでいたので(この辺の法皇の動きもなかなか機敏にして陰険)、
頼朝は堂々と義仲を逆賊呼ばわりして諸国に義仲を討つよう命令。
結果、何万もいた武士の大半は逃げ散り、義仲は元からの手勢数百のみで東国軍数万を相手にしなければならなくなった。
「宇治川の先陣争い」で範頼や義経軍がいかにも強敵を打ち破ったように描かれているが、実際は戦う前に勝負はついていた。鎌倉を動かず手紙を書き送っただけの頼朝によって。
「合戦そのものはそれまで積んだ事の帰結よ。合戦に至るまで何をするかが俺は戦だと思っとる。」平野耕太「ドリフターズ」より織田信長のセリフ
まさにこれに関して最強だったのが頼朝。ずっと鎌倉にいながら、彼は彼の戦をやっていたのである。まあ人気が出ないのもわかるけど。
資盛はようやく弓馬の道以外のやり方をやろうとし始めたが、遅すぎたし、やり口も普通すぎた。
前話で義経に撃破されたのに続いて、ここでもまたチート持ちと一般人の残酷な違いが。
頼朝のやり口、別な実例。
1184年、一ノ谷の戦いの後に頼朝が九州の武士たちに送った書状(吾妻鏡、寿永三年(1184)三月一日、下し文)
「平家が朝廷に謀叛したので、安田義定(甲斐源氏)と木曽義仲を『この頼朝の代官として』平家討伐に赴かせた。しかし義仲が平家と結ぶ反逆をなしたのでこれを討った。次は平家である。お前たちは早く鎌倉の御家人となって(頼朝が所領を安堵してやるので)協力して逆賊平家を討つように」。
この書状を受けて平家討伐に立ち上がれば、どれだけ戦ってもすべて「頼朝の御家人としてよくやった」という扱いにされる。
かといって従わずに様子見したら、頼朝が勝った後にじわじわと潰される。少なくともいい思いはできない。
ふざけんなと平家についたら・・・そうした武士も何人かいたが、逆賊扱いされ、周囲の武士たちの格好の餌食。
鎌倉にいながら一ノ谷で勝った結果を利用してこうして書状ひとつで有利な状況を作り出すのが頼朝の戦い。
また味方につけるためにあちこちにたっぷりと甘言ばらまいてる。(なおその通りにしたかどうかは歴史の教科書を読もう特に「地頭」について)
ほんとえげつない。
・維盛の旅路
アニメでは出なかったが、時子に「こいつ裏切るんじゃね?」と言われ半ば見捨てられている。(実際にひとり源氏についた清盛の弟がいるので「あいつみたいにする気じゃ」と余計に白い目を向けられた)
完全に心折れて、出家し人の世を去りたいと願うようになる。ただ、その前にかつて父と共に参詣した熊野(4話)を訪れたいとも願っていた。
そのため、屋島からまず紀伊(和歌山県)の高野山を訪れ、滝口入道に会い出家、それから熊野へ向かう。
その途中でびわと再会。恐らく岩田川のほとり。山中から紀伊白浜へ流れ出る川で、原典に出てくる。「この川の流れを一度でも渡った者は、悪行も煩悩も因縁も消え去る」とされ修行者が水垢離などを行う神聖な場所。
びわが「川向こうから」手を振っているという構図なのもそれを踏まえてのことだろう。
それから熊野三山を参拝し、那智から海へ。
なお、こうして南の海に入り民衆を導く先達となるという行を「補陀落渡海ふだらくとかい」という。「ふだらく」とは観音菩薩の住まう浄土のこと。
平安時代から記録が残り、時々行う者が現れ、最も新しい事例はなんと明治42年(1909年)である。
維盛の入水は3月28日と伝えられる。27歳。
生きて戻った武里から維盛の行動や言葉を伝えられた平家の面々は、裏切るなどと思ってすまなかったと泣いた。
原典ではこのときの資盛の泣き顔が「維盛によく似て美しかった」とあるが・・・アニメはそこは再現しなかった模様。
また、前話の清経と同じく、山中にひそんで生き延びた、壇ノ浦の後に京に出頭してその後病死、琉球に現れたなど様々な生存伝説がある。そのため維盛の墓といわれるものもあちこちに存在する。
維盛が持っていた刀は「小烏丸」だろう。鎧の「唐皮」と同じく平家に代々伝わるもの。これも4話で死期を悟った重盛が維盛に刀を渡す際に「小烏丸ですか!」「いや、ただの刀だ」というやりとりをしていたあれ。
・源義経と屋島の戦い
日本史上でも屈指の名将、軍事チートと言われる義経。
しかし実際、彼の戦歴を見ると、頼朝に戦略的にお膳立てをされた上で勝ってるだけの戦闘がいくつもある。義仲相手の宇治川合戦、次回の壇ノ浦も、最初から兵数(船の数)が相手の倍以上にそろえられていて、戦術的な名人芸を発揮しなくても順当に勝てたもの。
それでも義経が名将と言われる理由の、最大のものが、この屋島の合戦およびそれに至る流れ。
平家の警戒がゆるんでる隙を突いての出陣、渡海、阿波(今の徳島県)に上陸した機動力。
平家の兵力配置状況を確かめた情報収集と分析力。
少数での屋島急襲を実行した決断力、実行力。
海に追いやった平家の逆襲を撃退した、現場での指揮能力。
相手の方が兵数も軍船も多く、有利な陣地によっている状態なのを撃破した、この戦いは文句つけようのない名将のわざ。
前話の一ノ谷もそうだが、義経は「相手の弱点を見抜き、素早く自軍を機動させ、的確にそこを突く」のがこの時代でも最高に上手い。
上で書いた、平家残党が蜂起した「三日平氏の乱」でも、まずは現地の源氏方武士たちが対応したのだが、佐々木四兄弟の父親が戦死するような危機的状況になった・・・なのに義経が出陣すると(戦闘経緯は記録されていないが)すぐに敵を撃破し鎮圧している。
「平家物語」の後の話になるが、義経が奥州藤原氏のもとに逃げこんだ時に頼朝が最も警戒したのが「奥州征伐に大軍勢をさしむけたとしても、奥州軍を義経が指揮したらヤバい」ということ。
なので頼朝は、謀略で藤原氏自身にまず義経を討たせた。難癖つけて奥州藤原氏を潰すのはその後。義経が生きていたら多分奥州征伐は行われていない。
歴史上に時々現れる「天才」のひとりだったことは間違いない。
・那須与一
ちょっとだけ登場した、弓使いの代名詞ともなった名手。
・・・実際は、まず「あれを射よ」と義経が命じ
「武士の中の武士」と言われた豪勇の畠山重忠に打診されたが、重忠は辞退し(大勢力の武士団を率いる身でわざわざやる意味がない)
↓
畠山重忠が那須十郎という名手がいますと推挙したが
↓
十郎はここまでの戦いで怪我をしていたので、その弟の与一に回ってきた
という流れだったりする。
ぶっちゃけ、すでに弓の名手として名を成している者がここで名声を失うリスクを負う必要はないので
挑戦した那須与一、那須一族自体が、この時点ではそれほどのものじゃなかったことを示している。
しかし、ここで成功したことで、同時代の無数の名手をさしおいて、「よいちのゆみ」(某ゲーム)をはじめ、「那須与一」が「弓つかい」の代名詞となったという、運命、歴史の作り出すものの面白さ。
「同時代の無数の名手」の紹介。
・前話で敦盛を討った熊谷直実。幼名が「弓矢丸」、弓の名手として評判だった。
・源頼朝。石橋山では強弓を引いて敵を何人も射たと記録されている。叔父に鎮西八郎為朝(日本史上最強のアーチャー)がいる一族なのでなまじの武士よりよほど強かっただろう。
・5話の「橋合戦」で、原典では「矢切の但馬」に続いて浄妙坊という僧兵が「24本の矢を放ち12人を射殺11人に手傷を負わせる」なんて描かれている。
・壇ノ浦の戦いでは、和田義盛が「三町(300m)の前後にあるものは外すことなく強く射貫いた」「さんざんに射まくって多くの者を射殺した」と描写されている。なお那須与一が扇を射た時の距離は「七段ほど(70m)」である
・義経の船に強弓を放ってきた平家の武者に対して、射返せと命じると浅利与一(甲斐源氏)がそれ以上の強弓を引き絞り相手を射殺した。(浅利与一義成、浅利義遠とも。のちに女武者の板額御前を気に入り妻としたという伝承あり)
内容補足ではないが言わせてほしい
「平家物語」は、現代の小説のようにひとりの作者が書き上げるというものではなく、語りつがれ、書き写されてゆくうちに色々と変化していったもの。
そしてその際に、当時の知識人である僧侶たちが手を入れただろうことは疑いない。
だからこそ、「平家悪行」と言われるものは「貴族や寺社を踏みにじった」ことで民衆を苦しめたことは付け足し程度にしか言われてなかったり、清盛が高熱で死んだのも「寺社を焼いたことへの応報」だと書かれたり、あちこちやたらと説教臭かったりするわけだが。
それにしても加減しろ、と言いたくなるのが、維盛入水のくだり。
船出していよいよ現世を去ろう、というところで
維盛が「こんなに想いがつのって辛いのなら妻子など持つのではなかったなあ」と後に残す人々への未練があると懺悔すると
それに対して滝口入道が仏法を説き始める。
それがやたらと長い。
ほんと長い。
これ声に出して語っているんだったら維盛も入水やめるんじゃないかと思うくらいにとにかく長い。
これ書いた僧侶は全力出したんだろうけど、そこだけ異質で違和感ひどかった。
こんな長文
アンタすげーよ
解説ありがとうございます。楽しく読んでいます。
現代人にはなんで最初から自殺するつもりなのに出家するの?ってなるけど、そのまま死んだら地獄行きになるから浄土へ行くため出家して作法に則って入水するってことなんだろうな
宗教や信仰は他にすがるものがない人にとっての救済であって欲しいが、できれば死んで救われるより生きて大事な誰かと共に救われて充足感を得て欲しいと思う
この時代には人を救うための施設やシステムが宗教・信仰しかないから仕方ないけど