TVアニメ「#平家物語」
第九話「平家流るる」
フジテレビ「+Ultra」にてまもなく24:55〜放送
ほか各局でも順次放送
月「不思議な目の色ねぇ」
あかり「そういえば似た目の色の人にあったわ!」
びわ「どこでか?!」
静「丹後よ。その方も元白拍子だったんですって!」
丹後(京都の北の方)にびわちゃんのお母さんいるのか!情報増えた!
平家に父を殺された びわが平家の中で育ち、源氏側の静御前に救われ静御前のためにびわを弾いている。「木曽義仲よりも平家の方がマシ」。結局、奢れるものは何者でも同じということ
「強い方に付かねば、自分が痛い思いをする」もうね…仕方ないよね、人間はね…。誠実さや実直さ恩義、それらの”正しさ”とされるものに我々は力を持たせられなかったから。
清経は平家一族を網にかかった魚と例え、平家に不利であることに悲観し、柳が浦(大分県)から入水。
重盛の子ども達は武士と言うより雅な生活をした公家のような芸事に達者な者が多かった。戦いの世でなければと思ってしまう。
「敦盛最期」
扇を上げて招きければ、敦盛招かれてとつて返す
首をかかんと甲を押し上げ見れば、年は十六七、容顔まことに美麗なり
「あはれ、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろを見れば・・・
9話
椀の渡し箸、母子の橋渡し、知盛の渡り板、そして夢の浮橋。徳子が泥中の蓮なら、清経と敦盛は泥入れ鳥の子か。太刀筋は風切羽のようで振るう刀は鬼気迫る。身を捨てても浮かぶ瀬の無さが心悲しい。命の灯火は無情に消え去るも、玉響に重なる笛の音から情調が伝わり、心に深く刺さる。
「#平家物語」9話、静御前ら白拍子達と丹後に赴いたびわは母と再会したが、平家の行末を見届けようと再び旅出つ/平家一門は大宰府から豊前柳浦へ逃れる。清経が入水自殺する/義仲を討った源範頼・義経はそのまま平家追討に向かう。一ノ谷で平家軍が総崩れとなるなか敦盛が討ち取られる
【告知解禁】公式ガイドブック、発売。
滅びと未来を描く、祈りの物語――。
TVアニメ「#平家物語」公式ガイドブックが発売決定。山田尚子監督やびわ役悠木碧さんをはじめ、スタッフ&キャストへのインタビューを収録。現在鋭意制作中、編:ニュータイプ、4月下旬発売予定です。
9話
“結末”と”過去”が見えるからこそ”語り手”としての立ち位置が確立する。そして、平家と共に過ごした彼女だからこそ”語り継ぐ”と”祈り”が結ばれる。
ただ語るのではなく、祈る
それは”800年の時を超える祈りの物語”である本作がまさに”びわの物語”でもあると象徴する、完璧な1話だった。
うっ最初語ってた通り戦場に来て果てたはずなのに、清経の死で揺らいだ後なのを見ると…
見る側は心のままに生きれたのかわからなくなってしまう…
光を受けた横顔も最後に語る表情も綺麗すぎた…
コメント
先週分からつらくて見れないw 徳子の最後とか
想像するだけでつらい。まさに盛者必衰だよなあ
すばらしかった
何という怒濤の展開
1話にこれだけつめこんで、それでいてしっかり「それぞれの物語」を描いてるし清涼剤としての静たちもキャラ立ってるし、脚本ほんとすごい
そしてたまらなく切ない
びわが、実の母と出会い自分にできることを見出し、ようやく前を向いた。だがそれは見届け、伝え、祈るという「滅びを前提とした」行為……
PV第一弾では「ごめん」「すまぬ」「ありがとう」「こんど」「いつか」「またこんど」と謝罪と感謝、未来が連呼されていたのが
第二弾では「どうか」「どうか……」という祈りの連呼になっていた、その言葉がついに出てきた。あと二話、もっともっと出てくるんだろうなあ今からつらい
静たちを見て、かつての厳島神社での三兄弟を思い出すびわ
だがもう、あの三人がそろうことは不可能になってしまったなあ悲しい
それはそれとして、清経入水のところの画面切り替えがほんと上手かった
びわは未来を見ているので、数日前の昼
清経は夜で、切り替えるたびに確かに昼夜が変わっているが
まさに清経が水に入ったそこに叫びかけているという、つながり具合が見事
ほんとこのアニメ、こういうところで職人技見せてくれるのが大好き
9話補足。
・作中年代
今回は、前回の1183年夏から1184年2月まで。
半年足らずでこの展開。ほんと激動の時代、歴史の転換点。
・義仲敗亡
いやまさか一話で消えるとは思わなかった。
滅びるまでそれこそ13話かけて描けるくらい沢山あるので、興味ある人は原作(原典でも何でも)を読もう。
平家物語の名場面をあげればベスト10以内に入るだろう「宇治川の先陣争い」を完全カットするとはほんと大胆。
京の町中で義仲の部下が乱暴狼藉してるところは、原典にある「平家は厳しく締めつけるだけだったが義仲は家に押し入り服まで奪ってゆく」という人々の嘆きを映像化したものだろう。
後白河法皇のやり口に怒って在所を襲撃した「法住寺合戦」では、比叡山の門跡(トップ)、園城寺のトップをそろって討ち果たしている。他にも公家たちがぞろぞろやられてる。この時代の坊主がどれだけ横暴だったか、公家がどれだけ高慢だったかを思うとちょっと溜飲が下がる。承久の乱の原型とも言えるかも。
とはいえ、延暦寺トップにして皇族を討ち果たしたんだから、当時の知識人であった坊主たちが文章に手を入れていっただろう平家物語で、そりゃ義仲は野人、狼藉者のきわみとして描かれるし滅びて当然という扱いになるわなあ。
それでいてなお「木曽最期」のシーンは文句つけようのない名場面で、巴御前は大人気というあたり、イメージ操作しようとしてもしきれなかったパワーを感じる。
義仲と一緒にいた「兼平(今井兼平)」は、義仲の討死直後に、こちらも壮絶な死を遂げている。原作のそこもまた名場面。
巴御前もこれで出番終了。彼女の戦闘一度ぐらい見せるかと思ったけどこれも大胆カット。ちょっと残念。
・緒方
緒方三郎惟栄(これよし)。あるいは惟義。
九州の武士。
重盛の家人だったのに平家を見捨てたのはその通り。
今話では恩義を感じつつもやむなく、という風に描かれていたが、原典では「昔は昔、今は今、文句あるなら九州から追い出してやるぞ」というひどいセリフを口にしている。
大神(おおが)氏出身。
大神氏というのは、源氏が信仰する八幡大神を初めて顕現させたと言われる大神比義命(おおがのひぎのみこと)の子孫。源氏、平氏よりさらに古い一族。古い血筋がうごめく九州は魔界なり。
なおこの大神氏の子孫には、太正時代に帝国華劇団総司令をつとめた大神一郎がいる。
・・・というのはネタだが、幕末の蘭方医緒方洪庵はこの惟栄の子孫で、俳優の緒形拳もそうらしい。
この緒方惟栄、平家物語では「恐ろしい者の子孫」として語られている。
その恐ろしい者とは、彼の五代前の先祖「大神惟基(おおが・これもと)」。
豊後の山里の娘のもとに、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。相手の素性を探ると山の神である大蛇であったという。いわゆる異類婚姻譚、蛇神婚。そして生まれた子が「あかがり太郎」こと大神惟基。怪力の持ち主で体にはウロコがあったそうな。
「そもそも彼の惟義と云うは大蛇の末なりければ」(源平盛衰記)
惟栄の体にも数枚のウロコがあったという伝承が残されており、旗は「三つ鱗」を使用している。
・平家流浪
大宰府から筥崎(今の福岡市東区箱崎、筥崎八幡宮)までは、直線距離で15kmほど。歩けない距離ではなかったからこそつらいことになった。
雨の中を歩いたのは原典通り。というか原典の方がもっと悲惨。足ズタズタ。
「国母(徳子)をはじめ参らせて、やんごとなき女房たちは、袴の裾を高く取り、大臣殿以下の卿相雲客は、指貫の裾を高く挟み、徒(かち)裸足にて水城の戸を出て、我先に我先にと筥崎の津へと落ち給へ。折節降る雨、車軸のごとし。」
「いつ習はし(慣れないこと)の御事なれば、御足より出づる血は砂を染め、紅の袴は色を増し、白き袴は裾紅になりにける。」
箱崎八幡宮周辺も元寇の影響もあってな……必勝祈願の定番でホークスはダイエー時代、アビスパ福岡もしている。因みに現在箱崎から大宰府に行くには二つある。
JR九州鹿児島本線箱崎駅(各駅停車のみ)~JR九州鹿児島本線二日市駅(快速も停車)で下車、徒歩or西鉄バス(時間帯によっては歩いた方が早い)で西鉄大牟田線二日市駅~西鉄大宰府線大宰府駅、これは博多駅経由になるので県外で空路で来る場合は市営地下鉄で博多駅に来るもあり。博多駅に隣接するバスターミナルや福岡空港国際線からも大宰府行き高速バスもある。
福岡市営地下鉄箱崎線箱崎駅~福岡市営地下鉄空港線天神駅で下車、西鉄大牟田線天神駅(福岡駅でも通じる、県外の方はJRと混合している場合もある)~二日市駅で大宰府線に乗り換え。
ありがとう。
下関は行ったことあって、水天宮(平家の人々の墓がずらりと)お参りはしてきたんだけど、筥崎、大宰府はまだ行ったことないんだよなあ
平家物語見て、行ってみたいとこ色々できたから、また旅がしやすい世の中になってほしい
平家物語とは関係ない話失礼。
この段にある「折節降る雨、車軸のごとし。」というのは、荷車の車軸のようにまっすぐの輪郭が見えるほど大きく強い雨という比喩表現だけど
これが後の時代になると「雨しゃぢく(車軸)にて」と、比喩じゃなくそのままで単語として使われてるのが面白い。
「ゲリラ豪雨」が「ゲリラのように突然襲ってくる豪雨」なのに「ゲリラ来やがってずぶ濡れだよ」と豪雨そのものを示すようになってきてるのと同じだなあと。
・清経
筥崎まで逃れた平家は、緒方たちが追討軍を編成していると聞き山鹿秀遠という人物の居城に逃れるが、そこも危うくなりさらに豊前国柳浦(現在の北九州市門司区)に逃れた。
このときに安徳天皇の御所とされた場所が現在でも門司駅近くに「柳の御所(御所神社)」として残っている。
が、今度は源氏が海を渡ってくるらしいと聞かされ、急ぎ小舟で海に逃げ出した。
だからみんなきちんとした船ではなく小舟に乗っているのである。このアニメ、ほんとそういうとこ忠実。
そして清経は思い詰めて入水。享年21。1183年9月のこと。
※大分県宇佐市柳ヶ浦だという伝承もある。そちらには「小松塚」という慰霊碑がある。(父重盛が「小松殿」と呼ばれていたのでそこから)
見直すと、アバンタイトルで笛を吹いている清経の足元に、船を安定させるためだろう石がいくつも置いてあるのがワンカットだけ描かれている。浮いてこないようにそれをたもとに入れて・・・というのが想像できてしまう悲しい描写。
なお実は結婚しており、相手は維盛の妻と同じく藤原成親の娘。つまり兄弟で、姉妹とそれぞれ結婚したことになる。こちらも京に残してきた。
また実は生きていた、九州の山中で子孫が続いたという落人伝説もある。それも上の「緒方」氏の一員となって。
(平家落人の村として知られる五家荘には、清経の子孫という伝承が伝わる「緒方屋敷」が今も残っている)
追記
宇佐神宮にも安徳天皇が滞在した場所というのが残っている。
宇佐はこの時期でも平家方だったので(大宮司は清盛の娘婿という話もある)、そちらに身を寄せることに不思議はない。
のちに緒方惟栄が宇佐を攻めて神宮を焼いたことで流罪に処される。・・・とりあえず宇佐神宮には信義があった模様。
しかし、だとすると門司の御所とは?
筥崎からまず門司へ、さらに宇佐へと移動したのか。
逆にまず宇佐に逃げこみ、屋島へ移動する前に門司に滞在したのか。
門司にもかつては「柳浦」と呼ばれる浜があり、門司も宇佐も今でこそ県が違うが当時はどちらも「豊前」だったのでややこしい。
・一ノ谷の戦い
「一ノ谷」というのは、福原を守る三方の防御陣地のひとつ。東の生田口、西の一ノ谷口、北西の夢野口。
その生田口に源範頼率いる主力軍が攻め寄せ、裏手にあたる一ノ谷を義経が襲撃して突破し勝負を決めた。
なので実際は「福原の戦い」でもよさそうなのだが、一ノ谷の戦いという名前があまりにも広まってもはや修正は不可能。
その一ノ谷にしても、当然平家は地理を熟知しており守りの兵を配置していたわけだが、その防御担当だった資盛は義経にあっさり撃破されてしまった(三草山の戦い)のが今話でちょっとだけ描かれている。
弟が死んだ後で源氏への怒りに燃えていただろうし油断もしていなかっただろうに簡単に撃破されてしまう、これがチート持ちと一般人の残酷な差。
なお資盛は福原へ撤退できず西へ敗走したので結果的に生き延びる。
また、1話でワンカットだけ登場した、維盛資盛清経三兄弟の下の「有盛」をはじめ、このアニメには登場していない弟たちも資盛と共に戦っていたが、敗走する際にひとりだけ港の方へ逃げてしまいその後源氏軍に包囲され討ちとられてしまった。(平師盛、五男、14~18歳ぐらい)
福原防衛戦だったのに「一ノ谷の戦い」で呼ばれてしまっている理由は
義経が、戦後は京に滞在して貴族たちと交流を持ち、当然自分が戦った話を自慢し、それが大いに広まったが
一方の範頼は、鎌倉に戻ってしまったので生田口の戦いぶりを語ることがなかった
その差であるらしい。広告って大事。
また一ノ谷は、崖を駆け下りての奇襲、それにより平家総崩れという面白い展開なのに比べて
生田は平家主力ががっちり守っているところを大軍で攻める、人数は多いが地道で面白みのない戦闘だったのもあるだろう・・・どちらも命がけだったのにね。
意外なところでつながり発見。
この、討たれた弟「師盛もろもり」は、ティーン年代だが子供残していて
その子は、平家が滅びた後の「平孫狩り」――あちこちにいる平家の血筋の者を探し出す行動、京では北条時政(『鎌倉殿』ではまだとぼけたおっさんだが)が担当し維盛の妻子も時政に見つかっているのだが――から逃れることはできないだろうと
平家が滅んでから10年後、1195年に出家、浄土宗の開祖法然上人に13歳で師事することに。
それからよく学び、法然の高弟として勢観房源智(せいかんぼう・げんち)の名をもらい浄土宗集団をまとめてゆき、法然の遺言を託され、浄土宗本山知恩院の二代目となるのだが・・・。
法然の生前、法然からいただいた「南無阿弥陀仏」を金字で描いた「六字名号」を、ある人物に強引に奪われてしまったという。
その相手が、コメント10の熊谷直実・・・(実話、返してやりなさいという法然の書簡が残っている) 何やってんだヒゲ
・敦盛
本人ではなく、幸若舞「敦盛」について。
幸若舞とは室町時代から江戸時代初期まで流行った「叙事的な歌謡に合わせての簡単な舞」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)であり、軍記物が題材にされることが多かったので戦国武将が好んだもの。
その幸若舞「敦盛」の「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」のフレーズが、織田信長が好んで舞ったことで有名すぎるほど有名。
信長が、勝利か滅亡かの決戦である桶狭間に向かう前と、本能寺で没する前に舞ったことで、「人生わずか50年、それなら思うがままに生きてこそよ」という信長の人生観として受け取られているし
敦盛が悲劇の美少年ということもあって(上で「敦盛切ない。これは信長もファンになるわけだ。」と語っている人もいるように)
相乗効果で広まっているが……。
敦盛の台詞ではない。
これは敦盛を討った熊谷直実が、自分の息子と同い年ぐらいの相手を討ったことで世をはかなみ出家したいと願うようになる、その時の心情を語るひとふしである。
つまりこの「ヒゲのおっさん」のセリフ。
そして舞の「敦盛」は、直実が有名なこのフレーズを語った後、俗世を離れる覚悟を決め、京に上ってさらしてあった敦盛の首を盗み取って、法然上人(浄土宗の開祖)のもとに走って出家、その後高野山へ行き敦盛の遺骨を納め、八十三歳で大往生したと続く。
「悪に強ければ、善にも強し。文武二道の名人、漢家は知らず、本朝に、かかる兵あらじと、感ぜぬ人はなかりけり。」と直実を讃えて終わる。
要するに「敦盛」とは熊谷直実の物語。
「AKIRA」の主役はアキラではなく金田、というのと同じである。
・熊谷直実(くまがい・なおざね)
そのヒゲのおっさん。
保元の乱の頃から戦っているベテラン武士。敦盛を討った時、四十代前半。
埼玉県熊谷市のもととなった「熊谷郷」の出身。一応は平氏に属する血筋らしいが正確なところは不明。熊谷駅前に像が立っている。
※なお、地名は昔から「くまがや」だがこの一族は「くまがい」である。理由は不明。
経歴やエピソード調べてみると、上の「敦盛」で描かれているのと全然違い、かなり面白かったので書いておく。
ぶっちゃけ、超頑固な脳筋。
保元の乱、平治の乱では源義朝について戦い、その後は叔父のもとに身を寄せるが、一人前の武士として扱われないことに怒って(多分二十歳ぐらい)、叔父から離れ平知盛(!)に仕える。
しばらく平家に仕えていたが、大庭景親に従って坂東へ。石橋山の戦いでは平家方として参戦。その後情勢の変化(この辺は『鎌倉殿の13人』がやってる)に合わせて源氏に鞍替え。頼朝により熊谷郷を安堵される。また「日本一の剛の者」とほめたたえられる。
一ノ谷の戦いで、敦盛を討つ前に、息子はじめわずか五人で抜け駆けして平家の陣に攻めかかった坂東武者っぷりを発揮している。
源平合戦を生き抜いたが、鎌倉の鶴岡八幡宮で流鏑馬を行う際に、的を持つ役目を割り当てられて「それは下人のすることだ」と拒否したため所領の半分を没収。
さらに、隣の郷との境界争いが起き、頼朝の面前で口頭弁論を行うことになったが、口下手でうまく答えられずにとうとう「何を言っても無駄だ!」とブチ切れ、その場でもとどり(まとめた髪)を切り※ 家にも戻らずどこかへ消えてしまった。
(※1話の殿下乗合事件で平家方が相手にやったこと、武士にとって恥辱、自らやるというのは武士をやめるということ)
その後、法然のもとを訪れ出家。1193年頃。
各地に寺を建てて名を残すも、やっぱり頑固。
「西方浄土には決して背を向けないぞ!」と、京から東国へ向かう時には馬の上で後ろ向きに、つまり西を向くように座っていたという(直実のさかさ馬)。
「浄土にも 剛の者とや沙汰すらん 西に向かいてうしろ見せねば」(西方浄土では俺はすごいやつだと言われているだろう、常に西を向いて背中を見せないのだから)という歌を残している。
1207年没。
その前のエピソード。「来年に極楽へ旅立つ」と自分の死を予告する高札を立てたが、その年には死ななかった。なので「来年こそ」ともう一度立てて、ようやくその通りに往生したという。(京の貴族が「あいつが往生すると予告したけどまだ生きてるらしい、どうなってるんだ」と法然に訊ねた記録が残されている・・・)
今回は内容が多い分、補足も多くなってしまいましたすみません。
でも調べてると新しいことがどんどん出てきてほんと楽しかった!
直実が知盛に仕えてた、つまり平家の面々と顔見知りかよ! 重盛どころかびわとも顔合わせてた可能性あるのかよ! とか
こういう「京を知ってる人」を沢山配下に抱えてた頼朝と、山で育ち京を知らなかった義仲の人材の差、行動の差、そして結果の差・・・とか
色々勉強になりました。
後白河法皇もよくわからない人なのよな。若いころから今様狂いで父や兄から軽んじられていたのに、公卿や平氏源氏をうまいこと操る政治力を見せるし。でも、じゃあ人心掌握に長けていたのかと思えばそうでもなくて何度も怒りを買って幽閉される羽目になるという。
後白河法皇って、自分が尊く自分が大事というだけで深くは考えてない人に思える
特に決まった思想とか信念はなく
その時々で自分に良くしてくれる(朝廷を持ち上げてくれる)相手に頼りきる
でも都合悪い(ムカついた)らそれまで頼っていても手の平返す
平治の乱からしばらくは平家と仲良くしてたのに
平家が目障りになってきたからと平家打倒を言いだし
義仲を呼びこみ、こいつはダメだとなると旧知の頼朝に全振りする・・・
まあ「日本一の大天狗」(頼朝評)と呼ばれるのもわかるわな
個人的にはいい人だったんだろうとは思うけどね
教科書で見たシーンが、アニメで生きてた時の姿を見てるので余計につらい
入水した清経も重盛達のように、びわの祈りも相まって彼岸に辿り着けたのでしょうね
びわの祈りが亡き人の心にも届き、鎮魂にもなっていく
視聴者はびわ視点で彼らの死を見つめ、びわを通して彼らの魂を鎮めていくかのように錯覚していく
作品の作りにあざとさを感じながらも、私は嫌いになれない
静ってもしかして……後に静御前(生没年不詳、義経の妾として知られている)になる方かな?彼女らによってびわの本当の名が判明、そして彼女が平家物語が“語られる”事になったんですね。
丹後は現在の丹後半島を指す令制国制度時代の行政区分。明治9年の第2次府県統合により京都府の一部になり現在に至る。
箱崎は現福岡県福岡市東区箱崎の事、実は市内を貫通する国道三号線に明治時代まで海岸線の名残を示す史跡も近くにある。
義経と来れば弁慶も出る……因みに『孔雀王』でも出てます、織田信長を魔王として登場させた作品、弁慶は鬼の子と言う設定になってます。
廃墟で語るびわの語りがここにきてカラーは心情の変化か?
今回は特集EDだったけど
先行配信では通常のEDだった
アマプラでも通常EDだった。
となると恐らくBDでも通常EDかな。
しかし緒方の手の平返し見てると
つくづく、日本における「権力」のあり方って不思議だなあと思える
天皇が最も尊い、誰もがそれは否定しないのに
天皇ではない「院」すなわち「治天の君」という最高権力者が別に存在し
「治天の君」が今回の安徳→後鳥羽のように天皇すらすげ替える
それも誰も否定しない不思議
「治天の君」という制度が存在するわけでもないし治天の君即位式とか我が治天なりと宣言するとかの明確なものがあるわけでもないのに
「何となく」みなが治天の君はこの人だと認めその指示の方を天皇その人よりも尊重する……
三種の神器は天皇が持つものすなわち天皇の身分証明、のはずなのに今回みたいに神器なしで天皇即位もOK、そっちを認める人がぞろぞろ……
「天皇と院とどちらが偉いの?」この矛盾を、緒方のような人は自分の中でどのように処理しているのだろう
まあ、西洋のようにこういうところを突き詰めて考えないというのが、逆に「異端滅ぶべし」「すべてを殺せ」というえげつない内戦に至らなかった民族の知恵なのかもしれないけどさ
下の者は下の者で、その時々で都合良く自分が従う相手を変えられるという利点もあるわけだし
……その代わり、一端「なんかそういう空気」になったら、何の前触れもなく一斉に流れが変わる、日本史上何度か見られた「なんでそうなる!?」盤面返しが起きる怖さがあるけどね、鎌倉幕府滅亡時みたいな
治天の君になる方は大抵天皇の父や祖父なので、天皇を後見する平安末期当時の最高権力者であり特段矛盾は感じないと思います
また、当時「天皇」は都におわす存在であることは絶対的に不変と捉えているので、天皇が違う所に住まわれたら必ず「遷都する」と詔を発しないといけない
逆に言うと、天皇が住まう場所が無条件に都になる訳ではないのです
けれども、それすら無いまま平家と西走した時点で安徳天皇以外の皇子を新たに天皇に据えることは、奇妙ではあっても当時としては特段問題がない話なんです
後白河法皇を西走に同行させていけなかったことが、平家の主張の正当性を欠くことになり最大の失点ともなりました
無事に安徳天皇と三種の神器が京に戻ってこられたならば、安徳天皇は上皇となり、三種の神器は後鳥羽天皇の即位を正当化していけて、朝廷的には二人の天皇が同時期に存在するという矛盾が消えます
実際に壇ノ浦までの間に、朝廷と平家との間でその交渉がなされたのですが…
>治天の君になる方は大抵天皇の父や祖父なので、天皇を後見する平安末期当時の最高権力者であり特段矛盾は感じないと思います
だからそこに矛盾を感じない、というのが不思議だなあという話ですよ
あくまでも「後見」なんだから天皇から離れたら治天の君は後見たり得ないのでは?
天皇優先なの、後見者優先なの?
天皇は都にいなければならないというのは明文規定があるの? ないのになんで決まりだとなってるの? 今話のように三種の神器を持ってる天皇と持ってない天皇が両立した場合は神器ありの方が正当なのでは?(南北朝で南朝を正当とする理由はこれでしたよね) じゃあ神器が二つと一つに分けて持たれた場合はどうなるのか?
などなど、現代のこちらからすれば疑問が次々と出てくるわけでして
「何となくそういうものとなっている」曖昧なものを「決定事項として運用し、その時々により都合良く使い分ける」この民族的風潮が、現在でも「国号」「首都」「国家元首」を法文で規定していない、世界でも珍しい国という状況にもつながっているわけですが(いいか悪いかではなく日本はそういう所だという話です)
多分、現代の民主主義的な視点で歴史的な事柄を見る時に生じる違和感かなと思います
現代のと平安末期の政治システムは根底からして異なるもので、生じた疑問を現代の感覚で理解しようとされるのは、水と油を混ぜるようなものですしと私は思います
「そうであった」という事実を批判をせずに最初はそのまま受け入れる感覚は、歴史的な事柄を知っていく上であると便利かなとも思います
・都に天皇がいる
・天皇が都を移す時は遷都の詔を発する(壬申の乱時の混乱期を除く)
これは飛鳥時代から確実に続いてきたことで、それ以外の例を知らない当時の人(皇族や貴族など。なお、平民に関してはその手の史料が殆ど残されていないので不明です)は疑問を感じないことが前提となっています
曖昧さが生じるというのは、比較する対象や前例があってこそ
けれども、それから外れる前例がない状態が500年以上続いてきたという積み重ねがあった当時は、それらを明文化する必要すら無かったとも言えますね
治天の君は、後白河法皇の曽祖父・白河天皇から生じた政治システムですが、当時皇室領が増大していたこともあり、権力と膨大な財力を持つ者として朝廷に君臨していました
今回は在位中の天皇が母方の実家の没落に伴って都を離れた初めての例で、前例がないために朝廷ではまず平時忠達に安徳天皇が京に戻られることと三種の神器の返還を交渉したけれども失敗し、紛糾した末に後鳥羽天皇を即位させることにしました
この作品では丹後局の活躍?が端折られたためにその辺が意味不明となったけれども、帝が同時に2人いて、正当さはどちらに有るのかという問題を解決するために、朝廷側はそれらを解決するために西走中の平家と再度交渉をしていくのです
>多分、現代の民主主義的な視点で歴史的な事柄を見る時に生じる違和感かなと思います
「民主主義的」ではなく「科学的」な視点の話だと思います
王権神授説、天賦人権論といった、「権力とは何か、『同じ人間』が他の人間を支配するその理由は何から生まれるのか」というところをつきつめていくというまさに「科学」の話です
天皇制およびそれに付随する日本の権力論というのは、そういった科学的、キリスト教的「とことんまで突き詰めて考える」ものとは、正直言ってきわめて相性が悪い
「天皇本人が尊いのか、幼くて政務をとれない天皇は尊いのか、政務をとるのが天皇の尊さなのか、尊さとはなにか、天皇を後見する人間は天皇と同じくらい尊いのか」というようなことをひたすら研究する、ということに対して、いい気分ではないと感じる人は多いでしょう……が、「いい気分ではない」のはなぜか、ということも踏みこむのが科学というものです
>「そうであった」という事実を批判をせずに最初はそのまま受け入れる感覚は、歴史的な事柄を知っていく上であると便利かなとも思います
「そのまま受け入れる」ことは否定していません。「この頃の人は受け入れていたんだ・・・でも自分は色々気になるなあ」という区別はできているつもりです。
少なくとも「こんな理不尽を受け入れていたこの頃の人はバカ!」みたいな決めつけはしていませんし、そういう意見に同調することもやらないつもりです。
しかし、西欧の、キリスト教が「大工の息子イエスは、本人が尊いのか彼に宿った神の意志が尊いのか」という議論から始まり「儀式に供される聖餐(パン)の、どこに神の意志は宿っているのか、パンの表面か内部か、容器に接する底面か」で争った「聖餐パン派」みたいな、とことんまで突き詰め場合によっては殺し合ったような
無数の異端排斥、宗教戦争すら起こした「権力の源泉はどこか」という所をつきつめるようなことは、日本はやらなかった」
このことは、基本知識として広く認識してほしいところです
それがいいか悪いかという話ではなく、ね
豆知識
今話で後鳥羽天皇が立てられた
以前徳子が静かに嘆いていた「高倉天皇と殖子の子供」ではあるのだが
実はこの子、「またお生まれになった」二人目の方
では最初の子は?というと
実は平家と一緒にいる
(守貞親王、安徳天皇の養子ということにして後継者扱い。乳母が平知盛の妻なので平家と同行させるのはたやすかった)