徳子(CV早見沙織)が安徳天皇(5歳ぐらい)を呼ぶときの「みかど」の言い方が、天皇に対するかしこまった感じがほぼ無くて、普通に子供の名前を呼んだり叱ったりする時の感じで面白い。天皇の母にしかできない呼び方だ。
頼朝が義経を怒ったのは「三種の神器を手に入れらなかった」事とそのものより、「戦にして三種の神器や安徳天皇の命を奪う状況を作った」事にあるという解釈も。
知盛「見るべきものは、すべて見た」で目を閉じるのと入れ替わりのカットで、びわの瞳から力が失われる演出にゾクッときた
:(;゙゚’ω゚’):
平家の実質的な大将、清盛四男平知盛の平家物語名シーン「碇知盛」碇を身体に巻きつけ「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い放ち入水する。
入水の順番や描写は古典とは異なる。描かれているもので、源兵2人を抱えて飛び込んだのは平教経、2人手を繫いで飛び込んだのは平教盛、経盛兄弟。覚一本では体に碇を巻いたとされる。資盛も覚一本では弟有盛、いとこ行盛と3人手をつないで入水している。源兵に回収されてるのは宗盛ら。
紫苑の花言葉は「追憶」「君を忘れない」
藤の花言葉は「優しさ」「歓迎」
ツツジの花言葉は「節度」「慎み」
カラスノエンドウの花言葉は「喜びの訪れ」「未来の幸せ」
マジでcv梶くんの義経イケメンやな。
静御前と義経対面の場面、二人とも照れちゃうのかわいいし、それをつきとあかりと弁慶が優しく微笑みながら見守ってるの好き。癒しだ!!
祗園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
唯春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ
偏に風の前の塵に同じ
11話(終)感想
平家物語として今、私たちに届いていることが『祇園精舎の鐘の声…』の言葉に込められていると考えるとクるものがある。
彼等はその時代にたしかに生きていた。
その物語はここに閉幕する。されど語り継がれる物語の中で彼等は生き続ける。
それは儚くも美しい祈りの物語
びわが最後視力を失うのは琵琶法師が盲目の人のつく仕事であったことに因んでるんだろうけど、びわは古川日出男先生の分身でもあろうから、ありえない心配がよぎる。そのくらい鬼気迫る作品だった。
「#平家物語」11話(最終回)、壇ノ浦の戦いも平家は敗れた。時子は安徳天皇や三種の神器とともに海中へ没する。徳子もすぐ後を追うが、びわは徳子にはまだ先があると言って引き上げさせる/後のある日、後白河法皇が出家した徳子を訪ねる。辻々で平家一門の盛衰を物語るびわの姿があった
それぞれの想いを乗せた”祇園精舎の鐘の声…”
本来なら言うはずのない言葉だからこそ意味がある。
語り継がれてる証。
人を想い、祈ること。
それは今も昔も変わらない私たちに出来ること。
終わりがあるからこそ儚く美しく祈りを捧げる。
コメント
今までは奢れる平家が滅んでざまぁ見ろって感覚だったけど
この作品に触れてイメージがガラッと変わりました。
安徳天皇を祀る赤間神宮は竜宮城みたいなデザインだし
後世の人達へ鎮魂の思いが脈々と引き継がれているのがなんかいいね。
奢れるじゃなくて驕れるでした
琵琶法師の話とはまったく関係ないストーリーでした
出家後の徳子に付きそう侍女は大納言典侍だよね
壇ノ浦で御神鏡が入った箱とともに入水しようとしたら、矢に袖を射抜かれてそのまま捕虜にされてしまった女性
夫の重衡との別れの場面も見たかったけれども割愛されたのは少し残念
けれども、小松家の悲劇などを語り継ぐびわの物語みたいなので、これで良かったのかもとも思う
資盛生存説を採用したか。
後に戦国時代の織田家は資盛の子孫を自称している。
ギアスは役に立ったの?
義経がいなければここまで平家に勝てていたかとあるけど、おそらく勝ってたでしょう
むしろ、義経が無駄に平家追い込み過ぎて安徳天皇と草薙の剣を失ったから、頼朝にとっては損失の方が大きい
平家追討なんて武士政権作るために挙兵する大義名分に過ぎず、平家を支配者から追い落として影響力を削げれば事足りてたのに
天皇と三種の神器を手に入れるために交渉すべきだったものを入水まで追い込んで、おかげで頼朝の計画は大きく後れることを余儀なくされた
それでも即座に大将軍の地位を剥奪しなかったんだから、当時の常識としては義経に甘い方だったんだけどね
菩薩さまの像の手から5色の糸をつなげ、今際の際にある人に握らせ南無阿弥陀仏と唱えると生前どのような悪行を行ったものも極楽浄土に行ける。ラストの紫雲は徳子が極楽に行けた印。すべて原作基準。
ほんといいアニメだった。
スタッフに心から感謝。
見終えた後、自然に周囲のあらゆるものに祈りを捧げたくなる物語を見せてくれて本当にありがとう。
静かなシーンで高いアニメーション技術を見せてくれたことも嬉しかった。激しく動くばかりが神作画じゃないと、実例で示してくれた。
声優さんたちも見事だった。井上喜久子さんの、徳子に何も言わせない怨念こもった声音から、安徳帝を抱き上げた時の優しい祖母の声への変化。悠木碧さんも、「波の下にも都のさぶろうぞ」はゾクッと来た。みな、良かった。
船上のシーンだとずっと揺れているのが実はけっこうすごい。
船を描いたアニメでも、揺れてないように描くものの方が多いのだが(各カットごとに上下動のエフェクトかける必要が出てくるから手間がかかる)。
・・・そして、かつてのびわじゃないけど、みんな船酔い大丈夫なのと心配になってくる(弱い人はもうとっくに淘汰されてるだろうけどさ)
「重盛からもろうた眼」であるびわの左目が、「見るべきものは全て見た」ためか、未来が見える右目と同じ色に。
びわはこれからは、死者ではなく、語りつぐ相手である未来の人々を見ていく存在になったのだと解釈してる。
盲目になったと見た人が多いようだが、自分はそうは思わない。(これは正解のない話なので個人の解釈)
琵琶法師は盲目の人が多かったというだけで、晴眼の琵琶法師だっていたからね。
地上波放映してくれたフジテレビには心から感謝してるが、先行放映版と比べて、きわめて大きな不満がある。
ラスト。
白びわが出てきて琵琶の激しい演奏が鳴り響き、すべてが闇に消えて――その直後。
先行版だと、そこでタイトルロゴが出て鳥肌だったのに。
CM! それも余韻ぶちこわしの!
あれはいかん。
気持ちはわかるがスポンサーあってこその地上波、無料ゆえ我慢しましょうぞ
フジは鬼滅で視聴に邪魔にならないようなCM挿入の構成をちゃんと組める実績あるんだからさぁ…平家物語だってやろうと思えば出来たんじゃないか?
文句があるなら金を払って見ろ。
>>45
最後に1秒だけタイトル出してほしかった、という意見にそんな言い方されると
金を出すんじゃなく、見なくなる層の方がずっと多いぞ
今日あったBSフジではちゃんとロゴで終わってましたね。
さて、最終話補足。
このアニメで平家物語やこの時代について興味を持ち色々調べてみたら、これまで歴史の授業や読んできた各種フィクションで得た知識とはさらに違うこと、新しいこと、沢山知ることができて本当に楽しかった。
そういう機会を与えてくれたこの作品と、このサイトの管理人さんに感謝を。
・作中年月
壇ノ浦の戦いは「1185年3月24日」、つまり放映日と同じ。
地方によっては違うのがちょっと残念。
後白河法皇が大原の寂光院に徳子を訪ねた「大原御幸ごこう」は、翌1186年の夏。
壇ノ浦で捕らえられた者たちも大半が処刑され、平家はすでにこの地上から消え去っていた。
・壇ノ浦の戦い(リアル)
アニメでも原典でも、色々なことが起こり、特に潮の流れが変わったことで戦況が逆転し平家が敗北したように描かれているが。
長くここを拠点にしていた平家が、潮の変わり目を把握していないわけもなく、物語の脚色だろう。(それがいけないというわけではない)
実際はどうだったのかは、吾妻鏡はじめこの時代の史料には「戦闘が始まり、源氏が勝った」としか書いてないのでよくわかっていない。
ただまあ、どの史料でも源氏の方が平家の倍かそれ以上の船をそろえていたということは共通しているので、特筆することのない、兵力差を生かしての順当な勝利だったと考えるのが妥当。
また、逃げのびた船や人も多く、各地に平家の落人伝説が残っているというところから見ても、圧倒的な包囲殲滅ができたというわけでもなかったと推測できる。少なくとも義経の軍才というのはこの戦に関しては発揮されていない。(まったく勝手の違う船戦だからね)
・漕ぎ手を射よ
原典はもちろん吾妻鏡にも他の何にも、義経がそれを命じたという記録はない。
なのになぜかこれを義経が命じたとされている。
また、この時代に水夫を射るのは非常識だとされているわけでもないのに、現代のみんなが口々にそれは非道だルール違反だと言い立て、義経の非常識ぶりを示すエピソードとして言われ続けている。
「嘘も百回言えば真実となる」の実例。
実際に命じたとしても、揺れる船の上から正確に水夫だけを狙い撃つのはきわめて困難。(那須与一も浜辺から射ているわけで)
そんな狙いうちのできる名手がいるなら敵の指揮官を射させた方が戦が有利になるし本人の手柄にもなるというもの。
そもそもあんなに激しく矢が飛び交ってるなら、狙おうと狙うまいと水夫、梶取りにも被害出るだろうと。船を運用する側も水夫やられたら船を自在に動かせなくなることぐらいわかっててある程度の防備をそなえ、水夫の側も覚悟して乗ってると考える方がしっくり来る。
嘘といえばついでに、平家物語三大「言ってない」
○平清盛「平家にあらずんば人にあらず!」 →清盛じゃなくて、義弟、時忠の言葉(1話参照)
○平敦盛「人間五十年、下天のうちを~」 →敦盛じゃなくて彼を討った熊谷直実の台詞
○源義経「漕ぎ手を射よ!」 →義経はもちろん、誰も言ってない
さらについでに。
卑怯なやり口というなら、平家物語だけでもあちこちで色んなやつがやっていて、義経だけが非常識と言われるのは不条理だろう。
木曽義仲は、平家軍と戦う際に「平家の赤旗を立てた部隊を背後から接近させて、援軍と思わせたところで白旗に変えて、動揺したところを撃破する」というだまし討ちをやっているし(横田河原の戦い)
一ノ谷の戦いでも、源氏の武士が平家の武士に挑んで組み伏せられ降参する→首をとられそうになるが「降参した者を殺すのか」となじって命拾い→別な源氏の武士が近づいてきて平家の武士が気を取られたすきに飛びかかって首をとってしまう、なんてことをやってるやつがいる。
この時代の武士はそんなもん。(平家物語は平家に同情的なので、そういうことをやるのは大抵源氏方の武士だが)
いや。屋島のときに扇を射たあとに称賛して舞踊してる爺さんも射ろとか命令してるよ
あと高松の村も命じて燃やしている。
水夫は地元の雇われだから狙わないというルールもあったと思う。
命じたという史実はないのかもしれんが命じた可能性はある。
そういう勝つために形式を重視しなかったのも天才の顕れなんだからそんなにそこのエピソードで目くじら立てなくてもいいと思うが
上の長文の人は別に義経sageしたいわけじゃないでしょ。
与一を称えて踊った平家人を射殺す命を出したのは平家物語に書かれてる。
讃岐古高松の家々に火を放って平家追撃に出たのも平家物語に書かれてる。
でも「漕ぎ手を射よ」を命じたとされる場面は平家物語には書かれて「いない」。
なので引き合いに出すのはちょっと違うと思われ。
原典が源氏サゲなこともあって、義経が形式に拘らないエピは沢山あるのに
アニメ化にあたって原典よりも風説の方を映像化しちゃったことに問題はある。
折角原典にもある一ノ谷の戦いのエピ入れて義経の天才肌を表現したのにちょっと台無し?みたいな
当時水夫を狙うのはマナー違反、的な学説はあるものの裏付けする資料はなく
一説に過ぎないのに多くの人が正解だと認識している現状も問題あるし、
貴君が「命じた可能性はある」と感じるのと同程度に「命じた可能性はない」
とも言えるので、賛否ある場面を描いちゃったのはちっとばかし制作側のミスだったかなぁと。
村を燃やしたって、重衡が南都焼き討ちした時にも「灯りを取るために民家を燃やしたらその火が寺院に燃え移った」とあって、別に非常識扱いはされてないわけでね
義経が「形式を重視しなかった」というのは、後世の我々がそう言ってるだけで、当時としてもそんなに非常識なことはやってないというのが平家物語の表現なんだけどなあ・・・というお話
義経がやったのは「戦術的にすごいこと」であって「(この時代の)道徳的におかしいこと」じゃない、という『常識』はもっと知られていいと思う
他の物語が基本的に源氏贔屓だし高齢者とかは大河ドラマの影響で源氏側が正義って凝り固まってるから 平家視点は受け入れられんのだろ
・唐船(からぶね)
一番大きく目立つ船。
平家はここに安徳帝はじめ首脳陣がいると見せかけて、源氏の兵を誘いこんでから船にひそませておいた兵で叩こうと狙っていた。(帝や女院たち身分の高い者がいるので、乗りこんでくるのも名のある武士である可能性が高い)
・裏切り
上の策略を、寝返った者が義経に告げたことになっている。
寝返ったのは阿波重能(田口成良)とされており戦の前にやつは裏切るに違いないと知盛が警戒しているシーンがある・・・が。
「吾妻鏡」には戦闘終了後の捕虜リストにこの人物の名前があり、物語にする際に脚色されたものと思われる。
とはいえ、元からこいつならやりかねないと思われていた人物だったか、単に適当に選んだのか、本当に寝返ったけど許されず捕虜扱いされたのか、真実は歴史の闇の中。
・平教経(のりつね)
「うおぉぉぉりゃぁぁぁぁ」と叫びながら両脇に武士を抱えこんで飛びこんだ人。いわゆる義経の「八艘飛び」の相手。
平家方の最強武将なのだがここまで出てこなかったので、史実の一ノ谷で戦死という説を採り登場は全面カットだと思ってたら、EDでキャスト名ついてて、見直すとああこれかと。
個人的には、負けてる側で最後までひとり奮戦する人物というのは大好物なので、ワンカットだけでも出てきてくれて嬉しい。
・知盛最期
最後まで格好良かったよなあ。中の人が、「鎌倉殿の13人」では以仁王を演じていたという源平合戦ダブル出演。
このアニメでは碇をかついでひとり飛びこんだ。
山口県下関市の壇ノ浦古戦場跡には碇をかついでいる彫像が立っておりこれがメジャーだが、乳兄弟の「平家長いえなが」と共に鎧をふたつ着こんで海に飛びこんだというバージョンもある。
伊賀家長とも。伊賀服部(はっとり)氏の開祖。この人がいなかったら忍者ハットリ君いや有名な忍者服部半蔵は存在していなかった人物。
・資盛最期
入水した時に手をつないで一緒に飛びこんだのは、弟の有盛。
1話で重盛びわを紹介する際に幼児として登場したきり、二度目の登場がこれだというのはちょっと可哀想ではある。
子を残しているという伝承がある。
あの織田信長は、自分の祖先はこの資盛の子である「親真」だと主張し、織田家は平氏であるということにした。
また壇ノ浦からおよそ百年後、鎌倉幕府において北条家の執事(内管領)として権勢を振るった「平(長崎)頼綱」もまた、資盛の子孫を自称していた。
他にもあちこちに資盛の子孫と伝わる一族や伝承がある。
中には、2話冒頭で伊勢に送られた資盛が、その伊勢で現地女性と子供を作ったという話も・・・その子孫だと主張したのが伊勢の「関」氏。戦国時代に関一政が出ている。三重県亀山市では資盛の子孫と言われる関氏初代を祭る行事が今も開催されている。(「亀山関氏ゆかりの地 久我地区の春まつり」亀山市観光協会HPより)
このアニメでは一瞬だけ、生き残った資盛のカットを入れた。
身分を隠した彼がびわと合流し、「平家物語」を広めるびわと共に諸国を旅した・・・と想像すると心が豊かになる。
・藤原輔子(ほし/すけこ)
徳子が水に入った時に「女院さま!」と叫んだ女官。
あのイケオジ重衡の妻。大納言佐、大納言典侍とも。
神器を持ち飛びこもうとしたが袴の裾を射貫かれて動けなくなったカットが描かれていた。また飛びこんだがすくい上げられたというバージョンもある。
のちに重衡と再開するも、重衡は処刑が決まっていた。弔った後に出家し、すでに出家していた徳子に仕えて寂光院で余生を過ごす。
・モブ兵たち
「兵1」からではなく「3、4、5、7、8、10」なのはどうしてだろう。
モブ兵として割り振ってから、「この6は教経だな」「義経に報告してるからこれは源氏の兵1だ」と変更していったんだろうとは推測されるが、数が合わない。
・平宗盛
最後の最後までおびえまくっていた無能(として描かれている)。
息子ともども入水はしたが「鎧をつけていなかったし泳ぎが達者だったので沈みきれずに捕らえられた」と原典に。このアニメでも一カットだけ「かはっ、ごほっ」という息づかいと共に水揚げされるところが描かれていた。(袖の色で判別できる)
捕らえられた後、京にて斬首。平家の棟梁である彼に生き延びる道はなかった。
・山鹿秀遠(やまが・ひでとお)
アニメにも、ほとんどの源平合戦ものでも登場しないが、原典では「平家は船団を三手に分けた。先陣は山鹿の兵藤次秀遠である」とされ、史書である吾妻鏡にも平家船団の一将として名前が記されている人物。
九州の国人(地元の武士)。
9話で大宰府から筥崎に逃れた平家の人々を自領に一時かくまったのもこの人物。
清経は緒方の裏切りに「信義は失われた」とショックを受けていたが、最後まで平家を裏切らなかった人物もいたという話。
また、戦後は所領を没収され、伊勢(三重県)に移住し、平家の子孫とも伝えられる「関」氏に世話になり、血筋を残してゆく。
500年を経て、子孫に「山鹿素行」が出る。
「忠臣蔵」で赤穂浪士たちが討ち入りの際に打ち鳴らす「山鹿流の陣太鼓」で知られる軍学者である。
こんなところで「平家物語」が「忠臣蔵」につながる。
「つながり」ついでに。
この頃から、現代にまで連なる人や家や地域がいくつか出てくるようになる。
壇ノ浦の後、平家に味方した武士は厳しく処分され、その所領は没収となり東国の鎌倉御家人に与えられた。
それにより九州に移動してきた中に、惟宗(これむね)忠久という人物がいる。
彼に与えられた所領は、薩摩の島津荘――そう、あの島津家の初代である。薩摩藩はここから始まる。本当に。
そしてまた、没収された山鹿秀遠の所領には、関東の宇都宮氏が入って、山鹿の名字を名乗るようになった。(豊後宇都宮氏)
その宇都宮氏のひとりが近くの「麻生荘」に入り、麻生氏を名乗る。
北九州の麻生氏。800年後、明治時代にこの地域で炭鉱王となった人物もまた麻生、そしてその子孫に総理大臣も務めた人物が・・・。
こういう「つながり」を知ると、歴史は面白いとつくづく感じる。
「つながり」ということで最後のエピソード。
源平合戦よりさらに150年前。
東北で、頼朝義経兄弟のご先祖「源頼義、義家親子」と奥州の王「安倍貞任」が戦った「前九年の役(1051-1062)」。
この戦乱で、安倍貞任は戦死、その弟の宗任(むねとう)は捕らえられ九州の筑前大島に流罪とされる。
その宗任の三男、安倍季任が肥前(佐賀県)松浦氏に婿入り。
松浦氏は、島の多いこの地域の武士団の連合水軍「松浦党」を成す家のひとつ。
松浦党は、西国を抑え日宋貿易に力を入れた平清盛と結びつき、平家の家人(けにん)となるが、情勢の変化により、緒方と同じく源氏に寝返る。
しかしそれをよしとしない松浦党の一部は平家に合流。
壇ノ浦でも平家方として参戦した。
(平家五百余艘を三手に分け、山峨兵藤次秀遠并びに松浦黨等を以て大將軍と爲し「吾妻鏡」)
(平家は千余艘を三手に作る。山鹿の兵藤次秀遠、五百余艘で先陣に漕ぎ向かふ。松浦党、三百余艘で二陣に続く。「平家物語」)
しかし戦は敗退。
松浦党の者たちも討たれ、あるいは逃れ、一部は山中に隠れひそんだ。
その隠れた松浦党の一族が、平家残党狩りから逃れるために、かつての一族の名に戻して生き延びた。
それから700年後。
鎌倉幕府など当に消え去った時代、長州藩の元で庄屋をつとめていた地元名門の一族が、明治維新を経て、明治12年に政治家として出馬、山口県議会議員選挙に当選する。
この人物の名を「安倍慎太郎」といい。
その子孫が、日本国第90代、96~98代総理大臣、歴代最長政権を担当した「安倍晋三」である。
東北の蝦夷(えみし)が、九州で海賊衆となり、壇ノ浦を経てやがて日本のトップに立ったという、壮大な歴史の流れの物語。
※安倍晋三は2013年、岩手県金ケ崎町にある安倍氏一族の拠点「鳥海柵(とのみのさく)跡」が国の史跡に指定された際の記念式典に「私の祖先は鳥海柵跡の主・安倍宗任を祖とし、私で44代目」「末裔(まつえい)の一人として大変喜ばしい」などと祝電を寄せている
その、蝦夷と九州海賊衆の血を引く者が悠久の時を経てついに日本国のトップに立ったというのに
まさか、安倍晋三が「狙撃されて死亡」という終わりを迎えようとは・・・なんという栄枯盛衰、「諸行無常の響きあり」「盛者必衰の理」であることか・・・!
・徳子
救われた徳子は、他の生き残った平家の面々と共に京へ護送されるが特に罪に問われることもなかった。
一月後、出家し、「直如覚尼」という名になり、京都の北東、大原の「寂光院」に住まう。
法皇が訪れた際に一緒にいた尼僧は、上でも書いた「女官」、平重衡の妻。
徳子が法皇と語り合うところ、原典では「清経の入水が、憂きこと(悲しいこと)のはじめでした」と語るのだが、その前に義仲に攻められ都落ちしたこと、緒方に大宰府を追い出されて博多へ歩いて逃れたことは「憂きこと」じゃなかったというのがすごい。強い。
数年後、病に倒れ、1191年に亡くなった。最後に五色の糸を握り倒れているカットが描かれているのはそれだろう。
・・・だが、幸いなことに、平家物語を美しく締めるための脚色。
研究者によると、1191年だとまだ平家の記憶は生々しく残党狩りも行われ後白河法皇も存命の時期なので、亡くなっていたら公家の日誌なり法要なり何らかの記録が残されていて不思議はないのだが何もない、年齢的に見てその後20年ぐらいしてからひっそり亡くなったのだろうと考えられているとの話。
・しば漬け
徳子が後白河法皇に出した漬物。
寂光院のある大原の地元の漬物で、紫葉(しば、赤シソのこと)を使ったこれを徳子が気に入り「紫葉漬け」と名づけたという伝承がある。スーパーで普通に売ってるそれが平家物語由来という面白さ。
徳子と法皇が語り合う時に、平家の面々がそろっているカットが出て泣きそうになったけど
あれって原作の、徳子が護送されてる途中に「竜宮城にみながそろっている夢を見ました」と語った部分のことなんだな
だから、よく見ると手前の「木々」が、サンゴになっている
・五色の糸(ごしきのいと)
後白河法皇がかいま見た仏像の手から伸びており、無数の人々が「祇園精舎の鐘の声・・・」と口にするところで描かれる、「青(みどり)・黄・白・赤・黒」の五色の糸。この糸によって極楽浄土に導かれるとされる。
「極楽往生を願う者が臨終において横たわりながらも自らの手で引くために、仏像や仏画の尊像の手に付した糸のこと。」(WEB版新纂浄土宗大辞典より)
・その後の「平氏」
勘違いしている人が多いけど、「平家」は平清盛の血縁者および彼の一家に仕えた者たちであって、「平」の姓を持つ者すなわち平氏全体ではない。
したがって平家が滅びても平氏は残った。
確かに「平家」は、棟梁の宗盛とその子は斬首、維盛の息子高清(六代)も、捕らえられ平家直系の血筋は絶やされた。
(六代をめぐる物語は平家物語でも一章分描かれている。処刑寸前に僧の文覚(鎌倉殿に出てきた怪しい坊さん、頼朝に近い)に救われ出家し高野山へ、しかし数年後、文覚が失脚し各地でまだ平家残党もうごめいていたので、自分のことを思い出した頼朝の命で処刑されたとされる)
だが、早々に源氏に下った平頼盛(清盛の弟)、清盛とは別系統の平氏である平時忠とその子孫など、「平」のままその後も生き続けた人は割とおり、鎌倉幕府も「平」だからといって迫害するようなことはなかった。
関東に赴任してそのまま現地にいついた平氏の子孫が、百年後には「平」の名乗りのまま鎌倉幕府を牛耳る存在になっていたりする。(内管領、平頼綱)
ついでに。
「源平合戦」というので、源氏と平氏が戦ったと思われがちだが、実際は「平家」と「源氏を棟梁にいただく平氏系の武士団」が戦ったもの。頼朝の配下の坂東武士たちには平氏系が多い・・・
というのは割と有名だが。
一方で、平家にも、源氏の武士はいた。
壇ノ浦で捕らえられた人々のリストの中に「源季貞」という人物がいる。
この人は頼朝と同じ河内源氏の一族で、ずっと平家に仕え侍大将として各地を転戦。九州でも、アニメ内で法皇への報告として語られていたが、あの「緒方」に追い出されて一度攻めかかったという、その攻め手にこの源季貞の名前がある。
所領から飯富(おぶ)季貞とも。
その後どうなったかは史料にないが、戦国時代、武田信玄配下のひとり「飯富虎昌」はこの季貞の子孫であるという。
上の人、歴史の授業並の詳しい解説ありがとう!
残された人はただ祈るだけていうのを山田尚子が言うってのがほんと心に来る
京アニ事件を思えば見る事しか出来ないって琵琶の叫びも悲痛に響くね。
平家物語は政治、宗教、興業と色んな思惑で改変され続けて今がある訳だからさ、何百年か後の平家物語じゃ琵琶の居る山田尚子解釈が主流になってる可能性もあるんだよな。そんでその時の学習指導要領的なやつに「放火事件で失った仲間に対する祈りの心と琵琶法師たちの加味した仏教思想が呼応して21世紀に追加された創作である」的な事をちゃんと教えるようにとか書かれてるかもしれない。
7月18日に、3年目の夏が巡ってきますね……あの時亡くなった人たちが生きていたら、どんなアニメを見せてくれていたのでしょうか……
目が見えなくなったのは未来を変えたせい?って思ってしまった…
琵琶の母ちゃんも見えなくなったのは琵琶を助けたから?
なんにせよ平家物語楽しかったよ
その前に知盛の有名なセリフ
「見るべきのはすべて見た」と言って目を閉じたカットから
びわの目が開いて光を失う描写になってるから
未来を変えたんじゃなくて、ここまでの平家の必衰の全てを見たから
後はその目に見た光景を後世に伝える役目を担ったという表現なんだと思う
いかん、このアニメを見た後だと、怪談の「耳なし芳一」が・・・こう聞こえてしまう
(小泉八雲-ラフカディオ・ハーン「耳無芳一の話」より、青空文庫)
『壇ノ浦の戦の話をお語りなされ――その一条下(ひとくさり)が一番哀れの深い処で御座いますから』(CV:井上喜久子)
芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった(CV:悠木碧)
――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。
その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、
――「何という巧い琵琶師だろう!」(CV:木村昂)
――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」(CV:岡本信彦)
――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」(CV:入野自由)
するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。
しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦き慄える苦悶の声をあげ(CV:早見沙織)、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。
後日談として、「平家物語」についてつれづれ。
○日本人はいつの時代も日本人だな、という話。
「平家物語」は鎌倉時代中期ぐらいにおおまかな形にまとめられ、盲目の琵琶法師たちが語り継ぎ、あるいは晴眼の知識人たちが書き記していったものだが――。
それと同じくらいに、「平家の貴公子たちの日常」を描いた「平家公達草紙」というものも世に出ている。
現在笠間書院から出版されているものの紹介文
「『平家物語』に満足できないなら自分たちで書けばいいじゃない?
『平家物語』の登場人物を借り、鎌倉時代の読者が創った、美しき御曹司たちが織りなす逸話集『平家公達草紙』。
公達への夢と憧れの詰まった、二次創作の元祖!」
また。
「壇ノ浦で助けられた徳子が、源義経と熱い夜を過ごす」という内容の「壇ノ浦夜合戦記」というものも・・・(これは江戸時代の創作らしいが、徳子と義経がヤッたということを描くのは鎌倉時代にすでにあったという)
男女ともに、「薄い本」を作りたがる闇の情熱は、この時代から変わらないんだなというお話・・・
「平家公達(きんだち)草紙」、近所の図書館にあったので読んでみた
分量はそんなに多くなく、内容も「平家の人々はこんなに美しかった」「平家の維盛様の舞いはすばらしかった」「小松殿(重盛)一家が優雅に遊んでいらした」というような他愛ない逸話集・・・だが
ひとつ、「恋のさやあて」という怪しい話がある
語り手である藤原隆房が、「ある日、とある女性の住まう家に通っている(そこから朝帰りする)男の車を見た」「誰かなと思ったらなんと平維盛だった」「気になって仕方なく、家を訪れてみたら維盛が関係を持った女に送る歌を書く下書きを見つけてしまった」・・・『自分というものがいるのに、うらめし』
さらに、維盛がその女の元へ通おうとしている牛車に無理矢理乗りこんで「どこにでも現れるのですねあなたは」とあきれたように言われる
800年前にすでにBLは存在していた!
○「平家物語」が日本人の基礎教養となった
たまたま読んでいた室町時代についての本に、そのことが書いてあったので紹介。
「歴史」というものを、学校があるわけでもなく教科書で教えられるわけでもなかった庶民がどのように認識していたか。
そこに「平家物語」がものすごく貢献していた。
室町時代、1417年に、京のとある地蔵が流行って民衆がこぞって詣でるというブームが起きた。
その際に「風流(ふりゅう)」という、後の時代でいうなら「かぶき」にあたる、派手に着飾ったり色々奇抜な仮装をしていた記録が残されており――。
その仮装のネタが「那須与一が扇を射る」「源義経が山伏に変装して奥州へ下る」「建礼門院(徳子)が大原に住まう」などであったという。
「中国の故事にしても、いずれも『平家物語』に登場する逸話であり、『春秋』や『史記』から直接得た知識ではなく、『平家物語』を通して得たものであろう。当時、琵琶法師の語る『平家物語』は貴族層だけでなく、庶民にも知られるところとなっていた。寺院を修理するための勧進(募金活動)の歳に、琵琶法師が街角で『平家物語』を語ることは珍しくなかった。」(榎原雅治「室町幕府と地方の社会」岩波新書1581、P90)
日本人の精神性が形作られてゆくに際して、「平家物語」はかなり大きな要因だったといっていいのではないだろうか。すなわち、今の我々の感覚の根底にも、びわが語りついだ平家の物語があるのかもしれない。
○古川日出男「犬王」
CMが流れていて、劇場公開される作品。
平家物語とついているが、直接平家物語のどこかのエピソードを切り取ったというものではない。
舞台はずっと後の室町時代、足利義満の頃。
壇ノ浦で宝剣を海から引き上げたせいで光を失った少年「友魚ともな」と、芸能一座に生まれたものの体が崩れているためにかぶりものをしないと外に出られない「犬王」が出会い、二人の「平家物語」を作り上げてゆく物語。(かなり乱暴に要約しているので、実際に読んでみることを強くおすすめ。薄くて読みやすい)
義経の八艘飛びやらあったけど、彼もまた兄との確執(その原因が後白河法皇であるが……)により奥州藤原氏と共に消えた。ただし松尾芭蕉の俳句にもある様に彼が最期を迎えた時は夏であり義経の首とされるそれは腐敗が酷く、普通なら塩漬けによりある程度は原型を留められると言うが……これが義経がチンギス・ハーンになったと言う伝承になったからもしれませんね。
(チンギス・ハーンも幼少期はハッキリしてない)
平家の残存は“平家の落人”と言う形で日本各地に散らばり、資盛らは奄美群島に潜伏した伝承もあるが後世になって創作された反論もある。まあ中には敗北を知って平家の名字を棄てた方もいる。
一話で「平家で非ざるは人にあらず」とほざいていた平時忠(時子の弟)はちゃっかり生き延びているんだよなあ。太鼓持ちだけでなく、実際、有能な人物だったらしいけど
ここはなろうアニメの感想を書き込む場所じゃないぞ?
歴史的事実を厨二病って思っちゃう君の方が厨二病なんだよなぁ…
本編自体はすごく良かったし満足なんだけど、ここで時々入るツイの中にいちいち進撃を絡めたがる奴らが居ててマジでイラついた
そんなんだから進撃信者は嫌われるんだよ
義務教育受けてないの?
習っただろうけど忘れてるのなら、昔もらった教科書漁ってみな。
日本人なら誰でも知っている史実だから。
最後の静御前の舞、これが頼朝の前で義経を想って歌った舞の場面だとしたら泣ける…
平家物語ロス・・・今日はないのか、と夜に寂しくなった
関西は今日が最終回の放送やったんで見たけど、最終回も良かったし、全体を通しても凄く良かった(語彙力
ただ、民放の悲しさでCMが長く興を削がれがちやったんで、ブルーレイ買って一気見したいわ。
真偽は知らんけど自分の先祖が平家の落ち武者と聞いたことがあったので、壇ノ浦の戦いの結末を見て余計に切なくて申し訳ないような、如何ともし難い気持になった。
・百舌鳥とはスズメ目モズ科モズ属に分類される鳥類、中国東部~南部、朝鮮半島、樺太半島を含むロシア南東部、日本では南西諸島を含み全域に生息する越冬する習性を持つ。昔から“百舌鳥のはやにえ”として獲物を木の枝に挟んでおく習性も知られているがカッコウに托卵される鳥類でもある。
・イルカは和歌山の一部では捕鯨対象になった事もあるのだが……まあ欧州のキリスト信者の環境保護団体は保護した結果鯨しか居ない海になった時の責任をどうするんでしょうかねぇ?
・清盛の妻が選んだ選択もまた正解でもある……びわがこの光景を見て、何処かで語り継いでそして誰かが文章に遺した。本当にびわが存在していたかもしれませんね……。
・後白河法皇も平家の存命を願っただろう、だがそれは鎌倉の源氏(北条家)が納得するか……権力者は時として業(罪)を背負う、それは古今東西共通である。
この時点では、北条氏は大した力持ってない一御家人にすぎないぞ
後白河法皇はそもそも北条氏の存在を知ってたかどうかすら怪しいレベル
この頃は頼朝が名実ともに鎌倉のトップであり北条家の納得などどうでもいい
実際に、数年後、北条時政が使者として京に出てきた際には、公家に「北条丸という者が来た」と扱われてる
『丸』というのは「某」「なにがし」「なんとか」みたいな、まともな名前で呼ぶ必要のない小者の呼び方。時政は無位無冠なので名前を書き記すことすらしなかったということ
北条氏はその程度の扱いをされる家でしかなかったんだよ
ブラタモリで大原をやった時に、建礼門院の話もガッツリあって面白かった、徳子さんが紫葉漬けと名付けた話を聞いてアニメでも後白河法皇に漬物勧めるシーン意味あったんだと感心した。上のコメントですでに書いてあるの流石!
あとアニメでは再会のときに摘んでいた花を落としていたしそれも元ネタあったのね
花を摘んだり前向きに生活していたみたいで嬉しかったけど、それは山へトイレに行ってた隠語ではと言う説もあるらしくちょっとイメージが崩れるから聞きたくなかった!